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1994年に三重県鳥羽市に生まれた山田優がフェンシングを始めるきっかけとなったのは、いわば“復讐心”だった。

「三重で国体が開催されたタイミングで鳥羽市にフェンシングクラブができたんですが、そこで近所のいじめっ子がフェンシングをしていると知って、その子を退治してやろうと思ったのが、フェンシングをはじめたきっかけです」

自身もその子にいじめられていたという山田は、小学校2年生の時にフェンシングに出会った。しかし、始めた頃は練習もきつく、なかなか勝てなかったこともあって、「面白くなかったし、ずっと辞めたいと思っていた」と振り返る。

それでも、元々喘息持ちだった山田はこのスポーツを続けるなかで、身体は次第に強くなっていったという。実力的には「レベルが高いわけでもない三重県の大会で優勝できるかできないかくらい」で、全国的にその名を知られる存在ではなかった。

才能が開花したのは、中学2年生の時。

フェンシングには「フルーレ」「エペ」「サーブル」と3つの種目があるが、当時の日本では「フルーレ」が主流だった。

「エペとサーブルは、リーチがものを言う種目なので、外国人との差が大きいんです。だから日本人には向いていないと判断されて、フルーレばかりが強化されていたんです。そのなかで太田雄貴さんがオリンピックで銀メダルを獲ったこともあって、日本ではフルーレが主流になりました。でも僕が中学生になったくらいにエペの大会も増えてきて、気分転換に出てみたら、いきなりいいところまで行けたんです。その試合をたまたま今の日本代表コーチのサーシャさんが見てくれていて、声をかけられたんです。そこから本格的にエペを始めるようになりました」

比較的身体が大きかった山田はリーチとスピードもあったため、エペが向いていた。フルーレでは勝てなかった例のいじめっ子にも、「一度彼がエペの試合に出てきたことがあって、1セットでボコボコにしてやったのは気持ち良かったですね(笑)」と、ようやく目的を果たせたのである。

エペに出会った山田は、メキメキと力と付けていく。高校1年生の時にはインターハイで3位となり、2年生、3年生の時には優勝を飾っている。さらに日本大学進学後の2014年には世界ジュニア選手権で日本人初優勝の快挙を達成。まさに飛ぶ鳥を落とす勢いで成長を遂げていった山田は、日本フェンシング界の期待の星としてその名を知らしめていった。

ところがジュニアの大会では成果を上げていた山田だったが、シニアの大会に出るようになると、まるで結果を出せなくなる。

「当たり前ですよね。今までジュニアで優勝してきた人がゴロゴロいるわけですから、そう簡単に勝てるわけがない。だから、大学時代は苦しかったですね。勝てなくて、自信をなくして、このままフェンシングを続けていいのかなと悩むようになりました」

海外遠征が頻繁にあるフェンシングでは、遠征費が馬鹿にはならない。強化指定選手クラスになれば協会のサポートがあるが、それ以外の選手は自腹で遠征費を工面しなければいけない。母子家庭で、姉もフェンシングをしていた山田にとって、親に負担をかけたくないという想いが次第に大きくなっていった。

「だから母に伝えたんです。勝てる気がしないから、フェンシングを辞めると。自分が辞めて働くから、姉ちゃんにはもう少しフェンシングさせてあげてほしいって」

その想いを伝えると、母の反応は予想外なものだった。

「めちゃくちゃ怒られたんですよ。『私の楽しみを取らないで!』って。苦労をかけていたと思っていたんですけど、それ以上に僕がフェンシングをしていることを楽しみにしてくれていたんだなって。それを言われた時に、僕が間違っていたんだと気づかされました」

母の想いを知った山田は、これまで以上に熱心に、フェンシングに打ち込むようになる。

「どうしたらお金の負担をかけずに遠征できるか。国内でトップクラスになれば、協会が負担してくれる。じゃあそこまで行こうと。そこからは常にトップ4くらいのレベルを維持していますし、遠征費も出してもらっています。だから親に迷惑をかけたくないという気持ちが、今の立場にいられるひとつの要因だと思っています」

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振り返れば、母には苦労をかけてきた人生だった。

「朝早くから仕事に行っていましたし、帰ってくるのも夜9時くらい。だから、晩御飯はテイクアウトの牛丼とかが多かったですね。以前、取材で『おふくろの味ってどんな味ですか?』って聞かれた時に、すき家って答えたくらいですから(笑)」

そもそも、フェンシングを始められたのも、母のおかげだったという。

「僕がフェンシング始めるくらいのタイミングで両親が離婚したんですけど、父はお金かかるからフェンシングをやらせるなと。でも母は『私がその分働くから、やらせてあげてほしい』って言ってくれたんです。その時から苦しかったはずなのに、離婚してからはもっと厳しかったと思う。女手ひとつで僕らを育ててくれたことにすごく感謝していますし、母のサポートがなければ今の自分はないと思っています」

決して恵まれた環境ではなかったかもしれない。それでも母の支えを受けながら、努力を続けてた山田はオリンピックを狙えるまでの選手へと成長を遂げていった。しかも自国で開催される東京オリンピック出場が現実のものとなりつつあった。

オリンピック出場をリアルに感じられたのは、2019年。大きかったのは前の年に結婚した妻の存在だった。

「妻もフェンシングをやっていて、メンバー選考にも絡んでくるくらいのランキングにいたんですが、なぜかオリンピック前の国際大会のメンバーから外されて、オリンピック出場の可能性がなくなったんです。それでフェンシングを辞めることになって、僕のサポートに回ってくれることになったんです。自分だけじゃない。2人分頑張らないといけないという気持ちになって、フェンシングに対する熱意はより高まっていきましたね」

すると2019年に、今まで勝てなかったアジア選手権で初優勝を成し遂げることになる。

「自分はこんなにできるんだっていう自信が出てきましたし、そのシーズンは世界ランキングも60位くらいだったのが、一気に3位くらいまでに上がりました。これは世界でも勝てるなという状態だったんですが、オリンピックの延期が決まってしまったんです」

もっとも山田にとって大会の延期は、幸運だった。実はオリンピック出場を決めた大会で持病のヘルニアが悪化。足の感覚がないくらいまでにしびれていたため、試合中に何度も足首をひねるほどだった。しかし、オリンピックが延期になったことで手術に踏み切ることができたのだ。

そして迎えた2021年。万全の状態で東京オリンピックに臨むと、個人戦では6位入賞を果たし、団体戦では金メダル獲得の快挙を成し遂げた。

もっとも大会前は金メダルなど考えていなかったという。一方で可能性はゼロではないという想いもあった。

「トーナメントを見た時に、相性的には悪くない相手が続くねという感じで、みんなと話していたんです。初戦のアメリカにはこれまでも勝っていたし、フランスもシード国だけど、直近の大会では勝っていた。だからそこを乗り越えれば、勢いで行けるんじゃないかなって。そもそも僕らは自分たちの力で出場権を得たのではなく、開催国枠の出場だったので、どちらかというと重圧よりも楽しんでやろうという気持ちの方が強かった。そのスタンスが良かったと思いますね」

金メダルを獲ったことで、山田の人生には大きな変化が生まれている。そのひとつが大学卒業後から所属していた自衛隊を退職したことだ。

「自衛隊ではいろんなことを学びましたけど、縛りが多いので、やりたいことができない部分もありました。もっといろんなことをしてみたいと考えているなか、金メダルを獲ったこともあって、外の環境に出ようと決めました」

やりたいこととは、具体的にどういうものなのだろうか。

「今までだったら、ただ競技のトップというところだけを見てきたんですけど、競技の発展だったり、競技者を取り巻く環境だったりを変えていきたい想いがあります。金メダルを獲ったこともそうですし、年齢的にもそういう立場になったので、やるべきことだと思っています。誰かがやらなければフェンシングの発展はないですし、ただの自己満足で終わりたくはありません。自分が何をしたらフェンシング界が変わっていくかということを、今はすごく考えるようになりましたね」

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自衛隊から独立して、新たな想いを胸にフェンシングを続けている。

もっともオリンピック後の山田は、苦しみも味わっている。

「2022年に入って、なかなか結果を出せていません。エペはあまり差が生まれない競技で、分かりやすく言うと、世界1位レベルが100人くらいいるんです。そのなかで安定して勝つためにはどうしたらいいか。今は自分のフェンシングを取り戻すために、試行錯誤しているところです」

そのために、あえてフェンシングから離れる時期も作ったという。

「ちょっとフェンシングに対して、真面目になりすぎていたんですよね。勝たなければいけない。今の立場を守らなければいけないって、ちょっと自分を追い込みすぎていたと思います。だから、あえてフェンシングから離れることで、自分の中にどういう変化があるのかを試してみたかったんです。ちょっとフェンシングがつまらないと感じる時期もあったので、再びフェンシングへの情熱を高ぶらせるためにもいろんなアプローチをしていきたいと考えています」

当然、フェンシングへの情熱が消えたわけではない。オリンピックで金メダルを獲ったからといって、達成感に浸っているわけでもない。山田の視線は新たな目標へと注がれている。

「世界選手権のメダルが欲しいですね。エペではまだ日本人が獲ったことがないので、そこの1人目になりたいという想いはあります。さっき言ったようにエペは100人くらいがほぼ同じ実力なので、つまり人数が多ければ多いほど、優勝するのが難しくなる。世界選手権はオリンピックよりも参加人数が多いので、そこで世界一になるのはよりハードルが高くなります。オリンピックとは違う形で世界一になることができれば、自信も取り戻せるだろうし、もっとフェンシングをやりたいと思えるようになるはずですから」

常に辞めることばかりを考えていた小学2年生の山田少年は、28歳となった今、さらに強くなりたいと願い、フェンシング界を盛り上げたいとチャレンジを続けている。その大きな成長は、紆余曲折ながらも力強い、20年の歩みがあったからに他ならない。

(文:原山裕平)

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